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2018年9月16日 (日)

鴻上尚史58

<日12:00:01〜12:50BS1COOLJAPAN>


鴻上尚史
生誕1958年8月2日58歳
日本愛媛県新居浜市
出身校早稲田大学
職業劇作家、演出家
鴻上尚史こうかみしょうじ、1958年8月2日-は、日本の劇作家演出家である。劇団第三舞台主宰。日本劇作家協会会長代表理事1、日本劇団協議会理事。桐朋学園芸術短期大学教授。株式会社サードステージ代表取締役。
2001年平成13年より、劇団第三舞台の活動を10年間封印することを宣言。それ以降はプロデュースユニットKOKAMInetworkコウカミネットワークを中心に活動している。2008年平成20年5月には虚構の劇団を旗揚げ。株式会社ホリプロのマネジメントにより、テレビ、ラジオなどへも出演している。
経歴編集愛媛県新居浜市生まれ。愛媛県立新居浜西高等学校を経て、早稲田大学法学部卒業。
2011年1月4日、新居浜ふるさと観光大使に。
演劇活動編集詳細は第三舞台、KOKAMInetwork、および虚構の劇団を参照
大学では早稲田大学演劇研究会に所属しており、在学中の1981年昭和56年、岩谷真哉、大高洋夫らと劇団第三舞台を結成。旗揚げ公演として、ベケット作ゴドーを待ちながらと、当時流行していたルービックキューブをモチーフにした朝日のような夕日をつれてを作演出し、大隈講堂裏の特設テントで上演した。その後、小劇場ブームと相まって、チケット即日完売、大入り満員の人気劇団へ成長させる。
1994年平成6年に上演したスナフキンの手紙で、翌1995年平成7年に岸田國士戯曲賞を受賞。1997年平成9年に文化庁の芸術家在外派遣研修制度でロンドンに1年間留学して、俳優教育法を学んだ。
帰国後活動を再開するが、2001年平成13年のファントムペインをもって第三舞台の活動を10年間封印停止。第三舞台は2011年平成23年から2012年平成24年にかけて復活及び解散公演を行い、2012年1月に正式に解散した。現在は1999年平成11年に立ち上げたユニット、KOKAMInetworkを中心に活動している。また、新劇団虚構の劇団も立ち上げ、2007年平成19年11月に旗揚げ準備公演を、2008年平成20年5月に旗揚げ公演を行った。
就職戦線異状なしやトリック黒津次男役などの映画、ドラマに出演もしているが、2005年平成17年には蜷川幸雄演出の舞台KITCHENに俳優として出演。KOKAMInetworkの旗揚げ公演ものがたり降る夜にも出演した。
2009年グローブジャングル虚構の劇団旗揚げ3部作が第61回読売文学賞戯曲シナリオ賞を受賞。
2016年3月1日付で、日本劇作家協会会長に就任1。
ラジオ編集演劇活動のかたわら、1983年昭和58年10月15日から1985年昭和60年3月30日までニッポン放送のラジオ深夜番組オールナイトニッポン金曜深夜2部のパーソナリティを担当し、日比谷公園でジェンカ裏コピーコーナーなど伝説とも言われる独創的なコーナーを生み出した。1987年昭和62年10月17日から1989年平成元年4月1日まで担当したオールナイトニッポン金曜深夜1部での究極の選択どっちを選ぶ10回クイズちがうねといったコーナーは、他のテレビラジオ番組などで取り上げられ、その遊びが流行した。ちなみに当時のギャラは1月7万円金曜1部時代だったと、東貴博のニッポン全国ラジベガスで告白している。それでも金曜2部時代のギャラが1月3万円金曜1部の最終回で本人が告白だったことを考えればかなり上がっているなおこれには異説がある。詳しくは鴻上尚史のオールナイトニッポンを参照。
金曜1部時代には、番組内でドラゴンクエストが好きで好きでしょうがないと発言したことから話が進み、ドラゴンクエストIIIそして伝説へのエンディングとフィールドの曲をアレンジし、自ら作詞とボーカルを担当し、シングルレコードCDォーカル版ドラゴンクエストIIIそして伝説へA面そして伝説へIntoTheLegend、B面冒険の旅Adventureを発売した。このシングルはオリコンシングルチャートで初登場29位を記録した。またゲーム内でも鴻上がモデルの人物が登場する2。
同番組ではそれ以外にも、当時芸能界でいわゆる二世ブームが起きていたことに対してのジュニアというパロディコーナーを仕掛けていたが、鴻上の売れない演歌歌手の息子はつらいだろうなの発言に、演歌歌手の鏡五郎の息子が反応し、これをきっかけに長らくヒットに恵まれなかった鏡五郎にスポットライトを浴びせさせ、息子も鏡五郎の息子という芸名でCDデビューさせたりもしている。
なお、オールナイトニッポンでは2部時代1部時代ともに言いやすい呼ばれやすいという理由から自らこうかみでなくこうがみと名乗っていた。
その他編集1987年昭和62年秋のフジテレビキャンペーンウーヤーター、スーパーテレビ宣言のイメージキャラクターとなり、一般的に顔を知られるようになる。
またコラムニストとしても、週刊朝日連載の鴻上夕日堂の逆上鴻上の知恵、週刊SPA連載のドンキホーテのピアスなど長期に渡り執筆活動を続けている。
テレビゲーム制作にも関わり、GOD〜目覚めよと呼ぶ声が聞こえ〜1996年と同作の移植作GODpure1998年の制作総指揮を行っている。だが、唐突すぎる展開や一部にひどくグロテスクな描写があることからクソゲーとの評価もある。なお、ドラゴンクエストIIIそして伝説へのアッサラームの町には、東の国で劇場を開く夢を持っていた人物が存在するが、彼のモデルは鴻上である。
映画ジュリエットゲーム1989年で初監督。その後オムニバス作品の監督を手がけた後、1994年平成6年にはサードステージが自ら制作した青空に一番近い場所を監督するが、興行的には成功したとは言いがたく、その後しばらく借金返済のため本人談に地元あいテレビを初めとして多くのテレビ番組に出演する。2001年平成13年にテレビ朝日系の年末特番M-1グランプリの審査員を務めたこともあるこの年のみ。
大林宣彦監督の青春デンデケデケデケ1992年を見て、おおいに触発され、次回作水の旅人1993年のメイキングビデオを撮ることで大林監督に密着して撮影に同行水の旅人の映画パンフレットにはインタビュー記事が掲載されている。鴻上が撮影したメイキングビデオは映画の旅人と題して、ポニーキャニオンから発売された。後の同作のDVD化にあたって特典映像として収録されている。
2001年平成13年、ドラマウソコイに企画脚本協力として参加した。
2006年平成18年NHKで放映されたフランスジャパンエキスポ特集においてフランス人に対して様な問題発言を行い話題となった。
タモリ倶楽部においては下ネタ系の回によくキャスティングされ、番組内においてはそのイメージがほぼ完全に定着しており、本人は半ば呆れ気味ながらも、それを認めている。2007年平成19年8月18日放送の五円玉アイドルが教える深遠なる五円玉アートの世界では異例とも言えるきれいな内容の回に呼ばれ、本人も意外と語っていたが、9月7日放送の家康もビックリ庶民はお盛んだった江戸人の夜のしきたりで、またも下ネタ系の回に呼ばれた。現在はケツメイシのRyoと共に、タモリ倶楽部の下ネタの双璧を担っている。2016年平成28年1月30日放送の集めに集めて5409枚きのこ切手をコンプリートした男回においては、自身がキャスティングされていない官能小説を1万冊読んだ男を視聴した際の慨嘆を示し、エロ担当としての矜持を見せた。
鴻上自身もWikipediaの自分のページを見るらしく、一時期、少林寺拳法の達人となぜか誤った説明が載せられることがあり、何度も修正を試みたがすぐに記載が復活してしまうと困惑していたことをテレビなどで明かした。
平和安全法制に反対を表明している3。
映画監督作品編集1989年ジュリエットゲーム
1990年ボクが病気になった理由オムニバスの一編マイスウィートリトルキャンサー
1993年サザンウインズオムニバスの一編トウキョウゲーム
1994年

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